Heritage Walking
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大阪 中之島・梅田 — 米市場と煉瓦と橋の島

煉瓦を貼り直したダイビルと世界初の先物市場跡から、日本銀行のドーム、寄贈された図書館と公会堂、四頭の石のライオンまで。9か所、約65分、梅田南側の渡辺橋駅から北浜駅へ。

大阪 · 9スポット · 約65分 · 2.3 km

案内人が同行するガイドツアーではなく、一人で歩いて聴くセルフガイドのウォーキングツアーです。予約も決まった出発時刻もありません。スポットの位置を地図で確かめて番号順に歩けば、着いた瞬間にその場所の音声ガイドが自動で流れます。無料で、アプリのインストールも登録も必要ありません。

歩く時間は約65分なので、半日のおすすめ散策コースに入れやすい長さです。大阪の別のコースとつなげば、一日の観光モデルコースになります。

見どころと歩く順路

1. Daibiru Honkan

目の前のれんがの建物をご覧ください。濃い赤のれんが、明るい石の縁取り、入口を囲む石の彫刻があります。1920年代から残った建物のように見えます。しかし上にそびえるタワーは2013年2月に完成しました。いま見えているれんがの壁は、古い建物から外して一枚ずつ貼り直したものです。

最初のダイビル本館は、1925年にこの場所で開業しました。設計は建築家、渡辺節の事務所です。大阪市の資料によると、当時の大阪で最も床面積の広い貸しビルとして開業しました。80年以上にわたって中之島の目印でしたが、2009年に取り壊されました。

所有者はこの場所に22階建てのタワーを建て、低層部に旧館を再現することにしました。解体のとき、約18万個のれんがが手作業で外されました。そのれんがは新しい建物の外装に使われ、北面と西面の95パーセント以上を覆っています。石の彫刻の多くも再び使われました。中央の入口の上には、彫刻家、大国貞蔵の「鷲と少女の像」があります。壁の黄色い石は、兵庫県高砂で採れた黄竜山石です。

会社はこの低層部を、1925年の設計の復元だと説明しています。中之島は20世紀初めの大阪の業務の中心地でした。この建物は、新しい骨組みに古い外装をまとって戻ってきたのです。

れんががガラスと出会うところまで見上げてみてください。その線が、この島の二つの世紀の継ぎ目です。建物の横の小さな緑の丘は、タワーの完成とともに造られました。れんがの道が頂上まで続き、堂島川を見下ろせます。

2. Festival Hall (フェスティバルホール)

目の前のタワーを見上げてください。上のオフィス階はガラス張りですが、下の部分は違います。低層部にコンサートホール、フェスティバルホールが入っており、タワー全体がこのホールの名前を取っています。

ホールの歴史は1958年に始まります。ホール自身の説明では、この年にフェスティバルホールが中之島に誕生しました。開館公演は大阪国際フェスティバルで、この催しはホールの長く続く春の祭典になりました。音楽家たちは旧ホールの音響を「天井から音が降り注ぐ」と称え、その言葉が定着しました。

古い建物は残されませんでした。2008年12月末、街区の建て替えのためにホールは閉館しました。2013年春、新しいフェスティバルホールがこのタワーの中に開館しました。座席は約2,700席です。タワーの正面玄関には、赤いじゅうたんを敷いた大階段がホールまで続いています。

このホールは、銀行と米の仲買人の時代のあと、この島が何になったかを示しています。中之島はいまも業務地区ですが、この街区はオフィスだけでなく、コンサートホールを中心に建て直されました。

隣の川に目を向けてください。中之島を島にしている二つの流れのうち、北側の堂島川です。川沿いの遊歩道は誰でも歩くことができ、両岸のオフィスタワーはこの川に向くように建てられました。

3. Dojima Rice Market Site

川岸の二つのモニュメントをご覧ください。大きい方は「一粒の光」といいます。建築家、安藤忠雄の作品で、2018年に除幕されました。小さい方の銅像は、稲の中で遊ぶ子どもの像で、1955年の作です。その間にある銘板が、堂島米市場の跡を示しています。

江戸時代、各藩は年貢として集めた米を大坂に送りました。米は中之島周辺の蔵に納められ、入札で米の仲買人に売られました。買い手は米切手を受け取りました。米切手は一枚で米10石分です。やがて、この米切手そのものが売り買いされるようになりました。まだ届いていない米や、まだ収穫されていない米の切手もありました。

1730年、幕府はこの川岸での二種類の取引を公認しました。一つは米切手を売り買いする現物の市場です。もう一つは帳合米取引で、標準となる米を、実物を動かさずに帳簿の上で売り買いするものでした。この二つ目の市場こそ、この場所が大切な理由です。モニュメントを建てた大阪取引所は、堂島を日本の取引所の起源と説明しています。さらに、世界の組織的な先物取引所の先駆けだともしています。会員制度と清算の仕組みを備えていました。

取引は通りで行われました。正式な取引が終わると、居残る人を追い払うために水がまかれました。ここで決まった値段は、飛脚や旗振りの合図で江戸やほかの町に伝えられ、全国の米の値段の目安になりました。

市場は17世紀初め、川向こうの淀屋の店先で始まりました。1697年ごろにこの地へ移り、1939年に最終的に閉じられました。

4. Bank of Japan, Osaka Branch

大通りの向こうの、緑のドームを載せた灰色の石の建物をご覧ください。日本の中央銀行、日本銀行の大阪支店です。古い部分は1903年に完成しました。

設計は辰野金吾です。日本銀行自身が、日本近代建築の父と呼ぶ建築家です。ロンドンで学んだ辰野は、この支店をヨーロッパの銀行の古典的な系譜で設計しました。日本銀行は、手本の一つにベルギー国立銀行を挙げています。玄関はバロック風で、外壁は花こう岩、その内側はれんがの壁です。

いま見えている建物が、すべて1903年のものではありません。1980年から1982年にかけて、支店は建て替えられました。通りに面した旧館は残し、新しい事務棟はその後ろに建てました。日本銀行は、外壁と中央のドーム、両側の三角屋根が当時の姿を伝えていると説明しています。

二世紀にわたって、この島と川岸は大阪の米とお金の取引の中心にありました。この川岸には各藩の蔵屋敷が並び、川向こうでは米切手が帳簿の上で取引されました。日本銀行の大阪支店は、まさにその地区に建っています。

すぐそばの橋は大江橋で、御堂筋を堂島川の上に渡しています。島の反対側に双子の橋があり、二つは一緒に設計されました。

5. Yodoyabashi Bridge

橋のたもとに立って、欄干に沿って見てください。花こう岩の親柱と、青銅の高欄があります。これが淀屋橋です。島の北側の双子の大江橋とともに、国の重要文化財に指定されています。

二つの橋は、近代の大阪をつくった計画の一部です。1921年、大阪市は最初の都市計画事業を決めました。街路39本と橋157か所を、1941年までに整備する計画でした。その背骨が、いま立っている大通り、御堂筋です。この道が二つの川を渡る場所に、市は間にある市役所にふさわしい橋を求めました。

そこで1924年、設計競技が開かれました。応募案は、二つの橋を同じ設計の鉄骨鉄筋コンクリートのアーチ橋とし、周りの建物と調和させることが条件でした。当選したのは大谷龍雄です。審査評は、南ヨーロッパの中世の趣を近代の様式で表し、その底に東洋の趣味が流れていると記しました。コンクリートを様式の上で素直に表現しようとした点も評価されました。1930年5月に着工し、二つの橋は1935年5月に完成しました。淀屋橋は長さ53.5メートルでアーチは三つ、川幅の広い大江橋はアーチが四つです。

青銅の高欄には、別の物語があります。戦争中に金属供出で取り外され、木に替えられました。1987年、市が青銅の高欄を復元しました。橋の名板は、この計画を進めた市長、関一の書です。

名前は橋よりも古いものです。南詰に店を構えた商人、淀屋の名です。取引所の説明では、米市場は17世紀初めにその店先で始まり、その後、島を越えて堂島へ移りました。

6. Nakanoshima Library (大阪府立中之島図書館)

建物の正面をご覧ください。彫刻を施した柱頭を持つ高い円柱が4本並び、その上に三角の破風、その奥にドームがあります。図書館自身は、円柱の並ぶ正面はギリシャ神殿を、ドームのある中央ホールは教会を思わせると説明しています。

ここは大阪府立中之島図書館で、寄付によって生まれました。1900年2月、住友家の当主、第15代住友吉左衛門が大阪府に申し出ました。図書館の建物一棟と、図書を買うための資金を寄付するというものです。1900年11月に着工し、1904年1月に完成して、その年に大阪図書館として開館しました。設計は野口孫市、技師は日高胖で、二人とも住友の建築部門の人でした。

寄付はそれで終わりませんでした。1922年10月、両側に見える二つの翼の建物が、住友家の寄付で完成しました。1974年5月、本館と両翼は重要文化財に指定されました。建物の中で見つかった1903年の棟札も、あわせて指定されています。指定部分の耐震補強は、2014年12月に完了しました。

建館の寄付記の中で、住友は、栄えた大阪に図書館だけが欠けていると記しました。寄付は、建物とともに図書の購入資金も用意するものでした。それから一世紀以上たったいまも、平日と土曜日に開く現役の図書館で、入館は無料です。

素材を見てください。壁は石で、ドームは後ろに下げてあります。そのため通りから見ると、円柱と破風が正面全体を支えています。

7. Osaka City Central Public Hall (大阪市中央公会堂)

中央の大きなアーチ窓と、四隅のドームを持つれんがの正面をご覧ください。大阪市中央公会堂で、1918年に完成しました。公会堂は外観をネオ・ルネサンス様式と説明しており、構造は鉄骨れんが造です。

お金は一人の人物から出ました。1911年、株式仲買人の岩本栄之助が、公会堂を建てるために100万円を市に寄付しました。続いて設計競技が開かれ、13人が応募しました。当選したのは、29歳の岡田信一郎です。実施設計は辰野金吾と片岡安が手がけ、1913年に着工しました。

岩本は、この建物を見ることができませんでした。第一次世界大戦が始まると相場が逆に動き、大きな損失を出しました。寄付の一部を取り戻すよう勧められました。建築史家、山形政昭の記録によると、岩本はこれを断りました。大阪商人が一度出した寄付を返してもらうのは恥だ、という理由でした。1916年10月、岩本は39歳で自ら命を絶ちました。公会堂はその2年後に開館しました。

建物自体も、残らないところでした。1990年代には、度重なる改修で元の意匠が隠れ、構造も古くなっていました。1999年3月、市は保存と再生の工事を始めました。れんがの壁は残し、建物全体を免震装置の上に載せて、地震に耐えられるようにしました。工事は2002年に終わりました。その年の12月、公会堂は、西日本の公会堂建築として初めて重要文化財に指定されました。

アーチの前まで歩いてみてください。建物はいまも毎日、演奏会や集会に使われています。中の廊下などには、かつての設備や備品が数多く残されています。

8. Nakanoshima Rose Garden (中之島公園)

小道の間のバラの花壇と、両側の川をご覧ください。ここは中之島公園です。大阪観光局の説明によると、大阪市で最初にできた公園です。1891年、淀屋橋より東の、島の東部に開園しました。

公園が細長いのは、島が細長いからです。両側に川を持つ、公共の緑地です。1933年、市はこの区間全体を、都市計画上の風致地区に指定しました。

バラは公園よりも新しいものです。バラ園は1980年に開園しました。島に沿って花壇が並び、両側に水を見ながら、園の端から端まで歩くことができます。

この公園は、長いあいだ島の公共の暮らしを担ってきました。初めのころには、翠柳館という能舞台がありました。観光局が大阪で最初と説明するビアガーデンもありました。島の公会堂と図書館も、公園の施設に数えられています。

水の流れに沿って、西と東を見てください。西には公会堂のれんがが芝生の上にそびえています。東では、川が分かれる先端に向かって島が細くなっていきます。ここから見ると、島はいくつかの建物を載せた、一つの長い庭のように見えます。

9. Naniwabashi Lions

すぐそばの石のライオンと、道の向こうの相方をご覧ください。高さはそれぞれ165センチです。全部で4体あり、橋の四隅に1体ずつ、こちらの端に2体、島を越えた向こうの端に2体います。大阪の人たちは、この橋をライオン橋と呼んでいます。

橋の名は難波橋で、1915年に完成しました。市がこの通り、堺筋に市電を通したときに架けられた橋です。市の文化財の記録は、この橋を、市電の時代の橋の中で当初の外観の意匠を残すごく少ない橋の一つに数えています。

ライオン像は、1875年に生まれ1924年に亡くなった彫刻家、天岡均一の作品です。第6代大阪市長、池上四郎が依頼しました。2015年、市は4体の像を、近代大阪を飾った都市の美術として文化財に指定しました。1体は口を開け、もう1体は口を閉じています。神社や寺の守り神の像と同じ組み合わせです。

橋に沿って振り返ってみてください。二つの川と、その間の島全体を一つの長い構造で渡っています。真ん中からは、両側の下に広がる公園が見えます。

こちらの端の町は北浜です。堂島米市場に歴史をさかのぼる大阪取引所が、この角のすぐ西にあります。

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