水原華城

Suwon · 5スポット · ~75 min · 4.2 km

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この順路で歩きます

1. Paldalmun Gate

交通円環の中にぽつんと佇む南門――要塞の最も壮大な生き残りである。 華城(ファソン)は、ある家族の悲劇から生まれた。1762年、英祖(ヨンジョ)王は息子の思悼(サド)世子に命じ、米びつに閉じ込めて生き埋めにさせ、世子は8日後に息絶えた。思悼の息子は正祖(チョンジョ)王となり、10歳で失った父を称えることに治世を捧げた。彼は思悼の墓を水原(スウォン)の最も優れた土地へと移し、その周囲にこの要塞都市を築いた(1794~96年)。 南門である八達門(パルダルムン)は、最も威風堂々たる生き残りであり、石造りのアーチの上に建てられた二階建ての木造楼閣で、三日月の防御壁に囲まれている。門の周囲は過密な都市へと発展したため、ここで城壁はどこにも繋がらなくなり、門はロータリーの中にぽつんと立ち尽くし、現代の交通網の中に浮かぶ1796年の島となっている。 正祖の悲しみは都市計画へと昇華した。彼は商人たちに移住の税制優遇を与え、新しい灌漑設備を備えた実験農場を建設した――それは、韓国初の計画的な近代都市という側面も併せ持つ、追悼のモニュメントであった。

2. Seojangdae Command Post

正祖王が夜間の軍事演習を指揮した、丘の上の指揮楼。八達山の山頂にあるこの楼閣からは、城塞と街全体が眼下に一望できる。それこそが狙いだ。将台とは司令部であり、ここからはすべての視線が統制下に置かれる。1795年、正祖王はまさにこの場所から軍事演習を自ら指揮し、城壁全体が松明の合図で王の号令に応える夜間演習も行われた。掲げられた額の書は、正祖王自身の直筆である。王はこの場所で称えられているだけでなく、実際に執務を執っていたのだ。華城を設計したのは、28歳の学者・丁若鏞(チョン・ヤギョン)である。彼は滑車を使った起重機(キジュンギ)を発明して石を持ち上げ、10年かかると予測された工期をわずか34ヶ月に短縮した。朝廷は図面、賃金、資材に至るまでを網羅した詳細な工事報告書『華城城役軌範』を出版し、1950年代の戦争で城塞が被害を受けた際、この160年前の書物によって正確な復元が可能となったのである。ユネスコが華城を登録した理由の一つには、こうした確かな記録の存在があった。

3. Hwahongmun Floodgate

要塞の城壁を川が潜り抜ける、7つの石造りのアーチ。それは防衛技術とランドスケープ・アートの融合だった。要塞には城壁が必要だが、都市には水が要る。水原川が城壁と交わる場所で、建設者たちはその両方の課題を見事に解決した。それが華虹門(ファホンムン)である。7つの石アーチをまたぐ楼門の下を川が流れ、鉄格子が侵入者を阻んだ。「花虹の門」を意味するその名のとおり、アーチの水面への映り込みが美しい円を描き出す。防衛のインフラストラクチャーでありながら、まるで詩のような名がつけられているのだ。上流の岩壁に建つ東ぬき――次の目的地である訪花水柳亭(パンファスリュジョン)に目を向けてみよう。要塞のこの一角は、計算し尽くされた風景として造り上げられていた。正祖(チョンジョ)の技師たちは、完璧な要塞は美しくもなければならないと信じていたのだ。雨の後にこのアーチから水が勢いよく噴き出す光景「華虹観漲(ファホン・グァンチャン)」は、水原の誇る「八景」の一つとなった。

4. Banghwasuryujeong Pavilion

要塞の中で最も美しい一隅――それは、蓮池の上にたたずむ、庭園の東屋(あずまや)に偽装された見張り台だ。公式には、城壁の脆弱な小川の角を守る「東北角楼」と呼ばれる。だが非公式には、この要塞で最も美しい建造物である。十字型の屋根が重なるその東屋は、三日月の蓮池を見下ろす岩壁の上に佇み、「花を求め、柳を従える」という意味の名を持つ。

この二面性こそが設計の妙であった。兵士たちは、王が詩の会催したのと同じ建物から敵の接近を見張ったのだ。華城(ファソン)は、戦争と美を切り離すことを断固として拒む。下の池である龍淵(ヨンヨン)は、地元の人々が夕方のピクニックに訪れる場所であり、夕日に映える東屋のシルエットは水原(スウォン)を象徴する風景となっている。

防衛施設が恋人たちのデートスポットとなった――要塞の最後の勝利とは、もはや誰もここを軍事施設だとは思っていないことなのだ。

5. Hwaseong Haenggung Palace

正祖が朝鮮史上最も盛大な母親の誕生日パーティを開いた離宮――。それが「行宮」と呼ばれる、王の行幸のための臨時の宮殿であり、ここは全576室を有するその中で最大規模の宮殿でした。1795年、正祖はここで母・恵慶宮(ヘギョングン)の還暦を祝う8日間の祝宴を催しました。夫を米びつの中で亡くすという悲劇を目の当たりにしたその女性を、朝鮮王朝史上最も壮麗な祝典をもって讃えたのです。ソウルからの1,800人にもおよぶ行列、饗宴の献立、舞踊の振付に至るまで、あらゆるディテールが絵画と記録に留められました。韓国が自国の宮廷文化について知るその多くは、この意図的なまでに詳細に記録された一つの宴に由来しています。宮殿は植民地時代に1棟の建物爵を残して解体されましたが、今私たちが歩く空間は、まさにそれらの記録をもとに2003年に綿密に復元されたものです。中央の中庭には、宮殿よりも古い樹齢600年のケヤキの大木が立ち、縄には願い事が書かれた紙が結ばれています。正祖がこれらすべてを築き上げたのは、親孝行の愛ゆえでした。今なお訪れる人々が、この宮殿で最も古く生きるものに家族の願いを託しています。そのテーマは、建築が失われてもなお息づいているのです。

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